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フライフィッシングの始祖と呼ばれるジュリアナ・バーナーズ。彼女がヨーロッパでフライの指南書を書いていたころ、遠く離れた新大陸のインディアンは、全く別次元の毛ばり釣りを展開していました。それはヨーロッパの貴族階級の嗜みとは遠くかけ離れた、フロリダの湿地帯における漁でした。初めて見るその魚を、白人たちはブラックバスと呼び、これまで培ってきた自分たちのフライフィッシングで釣ろうとします。しかしその一方でバスの習性を熟知した先住民たちの独創的な毛ばりの威力を目の当たりにするのです。時は1900年初頭、純アメリカ産のフライフィッシングはこうしてバスバギングとして誕生し、その後のバスフィッシングに少なからず影響を与えていくことになります。
セミノール族とボブ
1741年、植民地探検を目的にフロリダを訪れた自然観察学者ウィリアム・バートラムは、次のように報告しています。
「フロリダのセミノール族インディアンはボブと呼ばれる擬餌針でバスを釣っている。それはヨーロッパ人が大陸を植民地化する以前から何世代にも渡って実践されてきた漁のやり方である。二人でカヌーに乗り込み、一人は船尾で操船、もう一人が船首で3メートルほどの竿を持つ。その竿には50cmほどの糸が結ばれており、その糸の先端にはボブと呼ばれる擬餌針が結ばれている。操船者は岸に沿って平行を維持するように、そして水面に生えるウィードのエッジにボブが届くようにゆっくりとパドルを漕ぎ、船首の釣り人は巧みにボブを操り、真上からボブをチョンチョンと水面に着けてはバスを誘う。ウィードの影に身を潜めていたバスはたまらずボブに食いつき、その日の彼らの獲物となる。」
グリッツ・グレーシャムは「バスフィッシングの全て」において、ボブについて次のように説明しています。「ボブは大きなイカリバリ(トレブルフック)で出来ており、それに大型のハックルを巻くようにして、鹿の尾の毛を少し取り付けてあり、さらに赤と白の羽根や真紅の布切れを混ぜてある。」
ここでいう鹿の尾の毛(バックテール)はボディヘアとは異なり、ホロー(中空)構造ではないので、少量では大きなイカリ針は沈んでしまったと考えられます。つまり、ボブ自体の浮力は当初はまだ完璧なものではなかったと思われ、それゆえに50cmという短い糸でボブを吊っていたと考えられます。
ボブはさらに北へと広まっていくなかで、鹿の毛を皮ごと直接シャンクに巻きつけたりして、徐々に浮力を備えるようになったと考えられます。そして、1800年代の中ごろまでには、ノースキャロライナへと広まり、その土地土地のインディアンよってさらに改良され、現代の我々が使っているバスバグに近いもに進化していったのです。バスバグの起源は、こうしたインディアンの鹿の毛の使い方にあり、鹿の毛が、バスバグのルーツであると言われているのはそのためです。
ネイティブスワンパーとコルクボディバグ
1800年代の中ごろまでにインディアンはセミノール族を含め、迫害を受けてミシシッピー川以西へと強制的に移住させられました。その一方でアメリカ国内の白人社会は工業化をどんどん進め、入植者も増加していきました。そんな中で第二の浮力体がバスバグに使用されるのは当然の成り行きだったのかもしれません。
A.J.マクレーンは1953年出版の「Practical Fly Fisherman」の中でコルクボディバグの起源を次のように説明しています。
「世紀の少し変わる前(1890年ごろ)、アーカンサス州とミズーリ州のミシシッピー川の支流セント・フランシス川のネイティブスワンパーがビール瓶の栓(コルク)と七面鳥の羽根(クイル)でコルクボディバグを作っていた。」
ここでいうNative Swamperが白人なのか、それともインディアンなのかは分かりませんが、僻地の先住民として考えると、元からここに住んでいたクアポー族か、もしくは強制移住の移動途中で住み着いたチェロキー族かもしれません。いずれにしてもインディアンはブラックバスの習性を良く知っていたことは確かであり、型に縛られない実践的なアイディアとしてビール瓶の栓を釣り針に応用していたと考えられます。
ちなみにアメリカ最初のビール醸造所は1820年に建てられ、1800年代末には、その数は数千ヶ所にまで増えています。(参考:アサヒビール世界のビール)
左の画像は1885年にミズーリ州セントルイスで創業されたチェロキービールのトレードカードです。
1800年代の終わりまでに、こういったクラフトビール工場はアメリカ各地に建てられ、そのコルク栓(プラグ)がコルクバグとなり、最終的にバスルアーになったのだと思われます。バスプラグのプラグという意味はこの詮に由来します。
ドクターヘンシャルと「Book of the Black Bass」
1900年までにヨーロッパから大陸にやってきたほとんどの白人たちは、鮭や鱒を釣るための彼らの伝統の世界で、バスを釣ることに固執していました。その志向は1881年に出版された「Book of the Black Bass」にみてとれます。
医者であり、自然観察学者であり、釣りの記者でもあったDr.ジェームス・アレキサンダー・ヘンシャルは、相当な知識人であり、ブラックバス釣りにおいても、アイザック・ウォルトンのアングリング哲学について語り、バスバグによる釣りを真のフライフィッシングからかけ離れているとして退けています。
従って、この本の中で紹介されているバス用フライは、メアリーオービスのウェットフライを少しばかり大きく派手にしたようなものであり、ウェットフライでありながら、もっぱら表層で使用されていました。
ドクターヘンシャルは1880年の雑誌の記事で、その使い方を次のように説明しています。
「釣り人はできるだけそっとキャストし、フライを静かに着水させて水面をざわつかせないように努めるべきである。キャスト後はラインのたるみを最小にしてフライを表層でスキップ、またはジグザグに動かす。場所によっては数インチほど沈ませてみる。」
このように、ヘンシャルのバス釣りはウェットフライをあえて水面直下で使用する鱒釣りの延長だったと言えます。
G.Tapplyは「Bass Bug Fishing」において次のように述べています。「1800年代後期以前にバス用のトップウォーターフライを先住民以外の釣り人が創案したという証拠がひとつもない。」
そういう意味で、バスバギングの起源というのは水面でバスを釣るところにあり、その概念はフックを浮かせるためのアイディアそのものだったと言えます。
グリッツ・グレーシャムの「バスフィッシングのすべて」によると、ヘンシャルが初めて目にしたバスバグは1894年インディアナ州インディアナポリスのM.D.バトラー氏から送られたもので、ヘンシャルによれば、「丸々として水に浮くボディをしており、シルクフロスと羽根、それに長いウィングとハックルで作られ、多彩な色の吹流しをなびかせている」と説明しています。この「まるまるとした浮くボディ」がコルク製であったかはヘンシャルはこの本の中で明らかにはしていませんが、スパンディアヘアボディのタイイング手法が、まだこの頃にはなかったことを考えると、おそらくはコルクであったと思われます。
浮力体としてのスパンディアヘア
では最初にディアヘアをスピンさせたのは誰なのか?エドソン・レナードはその著書「Flies」という本の中で、ディアヘアバグを発明したのは、ドクター・ヘンシャルであると述べています。しかし、前述したように、ドクター・ヘンシャルはイギリス発祥のウェットフライでバスを釣ることを薦めており、バスバグの釣りを真のフライフィッシングからかけ離れていると否定している人物です。それが数年後に急にバスバグを巻きだすとは不自然さが残ります。このような考え方をするアメリカのバスフィッシャーは他にもたくさん存在しており、「Summer
of the Bass」の著者W. D.ウェザレルも同じことを言ってます。
The big debate among historians is whether or not Dr. James Henshall, the
father of American bass fishing, did or did not invent the modern deer-hair
bugs as we know it. He wrote about bobbing, and he traveled enough in the
south that he probably knew about the spat, but in his published writings
about fly-fishing for bass, it's gaudy wet flies like the Montreal or Queen
of the Waters he talks about using, not anythig resembling a deer hair
or cork bug. The famous Henshall bug was named in his honor, it seems,
rather than being his own invention.
ドクター・ヘンシャルは実際のところは、スパンディアヘアは発明していなかったのでしょう。
ヘンシャルバグは後に誰かが考案し、彼の名声のためにその名を与えたと考えるほうが、妥当のように思われます。なにせ彼は世界初のバス釣りの本「Book of the Black Bass」の著者であり、アメリカでは「ブラックバス釣りの父」とさえ呼ばれている人なのですから。
なお、ヘンシャルルアーは1900年以降、ウェーバー社によって長く販売されていたことを考えると、商用的な目的で誰かがヘンシャルの名前をつけ、後にバスバグを売り出したことも考えられます。いずれにしても1900年以前のバスバギングは、白人にとっては黎明期であり、バスバギングという言葉さえ存在しなかった時代なのです。
本当にスパンディアヘアボディを最初に作ったのは、既に二人のフライフィッシャーの名が明らかになっています。それはエマーソン・ホフとフレッド・ピートです。ウィリアムB・スタージスの「Fly-Tying」(1940年出版)によると、エマーソン・ホフは1912年にスパンディアボディのフライを最初に巻いた人物であると書かれています。しかし実際にそのフライを見ると、浮かせる目的と言うよりも、細長いストリーマーボディをバックテールで形作った程度のものであり、バスバグのボデイとは程遠いものでした。ただ、この新たな手法の発見は、鹿の毛をより優れた浮力体にするきっかけとなったことは確かです。鹿の毛はそれ単体では針を浮かせることはできません。このタイイング手法があって初めて優れた浮力体を作ることができたわけです。
コマーシャライズされるバスバグと黄金時代の到来
こうして世紀が変わると、バスバギングに黄金時代がやってきます。1940年までのアメリカにおいてバスバギングは空前のブームとなりました。そしてこのブームと同時に有名なプラグメーカーが次々と創業されました。
この時代のバスバグブームを支えたのは、やはりコルクという浮力体の存在が大きかったと思われます。コルクという素材は、鹿の毛とは異なり、丈夫な上に簡単に作れるといったメリットがありました。つまり、それによって大量生産が可能となり、商業ベースで市場を活性化することができたわけです。従って、ブーム自体は釣り人が起こしたと言うよりも、むしろ、メーカーや広告がバスバギングというフィッシングスポーツをこの時代に作り上げたといっても過言ではありません。当時その役割を担った人物としては、ペキンポウ、カルマッカーシーそしてB.
F.ワイルダーのようなバグデザイナー、そしてウィルH. DilgのようなSporting誌の記者がいました。彼らは互いに競い合いながら未知のスポーツであったバスバギングを大衆化し、自らの市場を作っていったのです。
浮力体としてのコルク
「アメリカンフライフィッシング」の著者ポール・シュレリーによれば、最初の商用コルクバスバグは1905年創業のルアーメーカー「ジャミソン」が作ったと述べています。そのCoaxer(コークサー)と呼ばれるバスバグには当初からコルクが使われており、1910年ごろから販売されていました。また、その一方で「Practical
Fly Fishing」の著者A.J.マクリーンは、それはテネシー州のアーネスト・ペキンポウであると述べています。彼の作った「ナイトバグ」はフェザーとバックテイルをコルクに縛り付けたもので、コルクボディバグの元祖と呼ばれています。当初は自分の使うためのバスバグだったナイトバグでしたが、アウトドアライターウィル
H. ディルグとジョン・ヒルデブラントの支援を受け、その後ビジネス化されていきました。
アメリカで最も知られたバグメーカー「ペキンポウ」
ペックのポッパーを最初に取り扱ったのはヒルデブラントでした。従ってヒルデブラントは初期のバスバグフィッシングに大きく貢献したメーカーと言えます。
その後、1930年ごろまでにペックポッパーはアメリカで最も知られたバスバグとなりました。ペックが市場シェアを大きく伸ばした理由として品揃えの多さがあげられます。ペックのバスバグは非常に多品種であり、市場では高い競争力を持っていたのです。そして早くからフライロッドルアー専門メーカーであったことで、ヘドンやサウスベンドなどの強力なライバルの登場にも負けることはありませんでした。
ペキンポウは1952年に68歳で亡くなりますが、晩年に、最初のコルクポッパー“NightBug”(ナイトバグ)について次のように記録を残しています。
「最初のナイトバグは1910年か1911年の夕暮れ時に作りました。その目的は、暗くなってもバックテイルフライを水面に浮かせておくことができたら、もっと魚が釣れると思ったからです。フックの上にコルクをマウントし、その上にバックテイルを取り付けました。その試作は確かに水面で浮きましたが、すぐにフックからコルクが脱落するという問題が生じました。シングルフックはコルクをシャンクにしっかりと留めることができませんでした。そこでダブルフックを使うことにしました。だからペックの最初のバスバグはダブルフックとなっています。また、当時、建設会社で働いていて、現場がいつも家から遠く、釣りをする時間は限られていました。大抵は釣り場に到着すると日が暮れていて、次第に夜釣りをやるようになり、「Night
Bug」と名づけました」
その後、ペックのナイトバグはシングルフックとなります。その理由は、1914年にヨーロッパで第1次世界大戦が始まり、ダブルフックの仕入れルートを絶たれたためです。それでもペックはナイトバグをテネシー州のチャタヌーガの地元で作り続けました。ある時は釣具と交換し、またある時は親しい友人に配り、またある時はバス釣りに来た旅行者に販売したりしていました。それらが口コミで広がり、ペックポッパーの評判は全国に広がっていきました。こうして1920年、ペックは会社を設立し、自分のバスバグの量産を本格的に始めることとなったのです。
ペックは、長年、様々な形状のポッパーヘッドを試作する中で、最終的にひとつの結論を出しています。それは“Flat Face Horizontal
Notches” 「平面X字カット」というものでした。ペックは、これこそが最もバスに効果があるヘッド形状であると結論付けています。また彼は、ポッピングフェザーミノーでポッパーヘッドの前面を最初にカッピングした人物としても知られていますが、そのデザインは、単にマーケットがそれを欲しただけであると述べています。つまりペックの一押しポッパーは平面X字カット型ヘッドを持つPopping
Bugだったと言えます。実際、ペックは、そのビジネスの終わりまで平面X字カットバグをたくさん作り続けています。
1920-1930までに活躍した他のバスバッガーたち
カル・マッカーシー
カル・マッカーシーはウィングをコルクボディに平らに取り付けた“flat-wing”スタイルと呼ばれるバスバグを作りました。そのバスバグはサウスベンド社にて1950年ごろまで販売されました。なお、カル・マッカーシーは優れたバグの作り手であると同時にキャスティングの達人であったとも言われています。
B.F.・ワイルダー と ウィル・H.・ディルグ
B.F.ワイルダーはポッパーヘッドをブレッド型(砲弾型)にした最初の人物だと言われています。当初ワイルダーは、コルクヘッドの前面を丸め、フェザーミノー型と呼ばれるバスフライを考案しました。ハックルテールとハックルスカートで構成されたそのスタイルは、フェザーミノー型として、ペック社においても「ポッピング・フェザー・ミノー」として長年販売されました。そして長い暗黒時代に入り、このフェザーミノーという言葉が使われなくなり、一般のポッパースタイルになりました。従って時代を認識し直せば、現代のこの手のポッパーは全てフェザーミノー型と呼ぶことができます。
最終的にこのワイルダーミノーはウィル・H.・ディルグの改良によりワイルダー・ディルグ・フェザーミノーとなり、ヘドン社により長年販売されることとなります。ウィルH.ディルグはアウトドアライターとしてミシシッピー川におけるバスバギングの記事を数多く書いており、バスバグフィッシングの普及に貢献した重要人物の一人です。
トム・ラビン
ちょうど、そのころ、メリーランド州のボルチモアで、トム・ラビンという人が、ガーバブルバグを考案しています。このフライについてジョー・ブルックスはラージマウスバスに最も効果的なバグであると述べています。その特徴は、コルクボディの両サイドにスリットをつくり、ハックルフェザーをそこに滑り込ませるというものでした。水面上でハックルフェザーが微妙にキックバックする、非常にオリジナリティの高いバグとして知られるようになりました。なお、このバグの材料はオリジナルはコルクであったと思われますが、後にバルサで作られたと言われています。メキシコ南部が原産のバルサは、1930年ごろからアメリカに大量に輸入され、建築資材や航空機との素材として重宝されるようになりました。バルサの平均密度は約
140 kg/m3(比重0.14)※参考ウィキペディア なのに対し、コルクの平均密度は約160 kg/m3(比重0.16)と、それぞれバラツキはあるものの、比重はコルクとほぼ同等か、それ以上の優れモノ素材だということが分かります。1940年ごからクリアレイクで活躍したバスバッガー、ロイド・イーザーマンもバルサでポッパーを作っていたひとりです。
オルレイ・タトル
デビルバグは、ディアヘアで作られた世界で最初のコマーシャルバグだと言われています。その起源は1919年にオルレイ・タトルによって考案されました。当初、彼は自身がよく釣行していたホームレイクでスモールマウスバスがビートルを捕食している光景を目撃し、それをイメージしてこのバスバグを作ったと言われています。そのタイイングは、ヘッド部分だけスピンさせてクリップした後、ディアヘアをレイダウンさせ、後方で縛るという、これまでにないものでした。なお最初に作ったそのバグを彼が奥さんに見せたところ、「私には悪魔にしか見えない」と言われたことから“デビルバグ”と名づけられたといいます。その後1922年までにデビルバグは年間5万個生産され、モスバグ、ビートルバグ、マウスバグなど800アイテムに及ぶカラーとサイズで生産されました。
ジョー・メッセンジャー
1930年代、ジョー・メッセンジャーはディアヘアを用いて、バックテイル・フロッグと呼ばれるバスフロッグを作り出しました。そのタイイング手法はスタッキングと呼ばれ、これまでのスピニングディアヘアとは一線を画す手法でした。彼はその手法で、鹿の毛の束をスピンさせず、その場でフレアさせ、それを交互に進めて行くことで、ツートンカラーのバスバグを作り上げることに成功しました。さらに彼は、フロッグの足を張り出させる為に、二つの足の間接にそれぞれ、カーペットスレッドと虫ピンを仕込ませ、スレッドを引くことで太腿のヘアを縮ませ、虫ピンを曲げることでキックバックレッグを作り上げました。この独創的なタイイング手法は今日も賞賛されており、傑作フロッグとして知られています。
1930年代、バスバグフィッシングはこうした傑出した熱意を持つバスバッガーたちによって、全盛期を迎え、そのタイイング手法や釣り方が一般の釣り人に普及していった時代でした。しかし、それも長くは続きませんでした。1940年代になって、スピニングリールが北米に普及してくると、フライフィッシングの人気はだんだんと衰え始めました。特にバスのフライフィッシングでそれは顕著だったと言われています。ジャック・エリスはこの第2次世界大戦後の30年間をバスバギングの暗黒の時代と呼んでいます。
バスバッガー ジェイソン・ルーカスの影響
1947年に出版された「LUCAS on BASS FISHING」において、ジェイソン・ルーカスはバスバギングの写真を表紙に飾りながらも、その内容の多くをバスプラグの操作やベイトキャスティングタックルに充てました。そしてバスバギングを「フライフィッシングとしては未完成の釣りである」と述べています。
彼は当時、アウトドア雑誌「SPORT AFIELD」の記者でした。他のライバル2誌「Field & Stream」「Outdoor Life」は比較的トラウト志向であったのに対し、「SPORT
AFIELD」だけが彼がいたことでバスフィッシング志向だったと言われています。
ルーカスはバス釣りに関する様々な記事を書くとともに、読者からの質問に回答するなど、誌面においてはバスフィッシングのオピニオンリーダー的存在でした。従って、彼がフライロッドをベイトロッドに持ち替えたことの影響は大きなものがあったと思われます。スピニングリールなどの新しいタックルを使用した多くのアングラー達は、その便利さを知って、いよいよバスバギングを不便な釣りと評価するようになっていきました。その結果、1970年代中ごろのデイブフィットロックの登場まで、バスバギングは地下に潜り、完全な暗黒時代を迎えることになったのです。そしてそれに代わるようにして、バスボートが登場し、賞金をかけたトーナメントが始まります。
1970年代に活躍したバスフライロッダー
デイブ・フィットロック
1970年代中ごろになると、それまで地下に潜っていたバスバギングは、デイブ・フィットロックによって地上に顔を出すことになります。フィットロックはフライフィッシャーであると同時にライターでもあり、魚の絵を描く芸術家でもあります。1975年ごろから20年近くに渡って、バスのフライフィッシング普及のために活動しました。その功績は大きく、優れたバスフライを多数生み出しました。マウスラット、ウィグルレッグフロッグ、ヘアフロッグ、シャモアリーチ、ヘアワーム、ウォーターパップ、ヘアグラブ、マッチザミノー、シープサンフィッシュ、シープシャッド、スカルピン、デイブズホッパー、クリスタルドラゴンetc. どれも傑作として知られ、アンプカ社によって販売されました。重要なこととして、それまで水面での釣りがメインであったバスのフライフィッシングにおいて、沈めるフライを多数創案したことは意義深いことでした。また彼はLLbeanフライフィッシングスクールの初代講師でもあり、雑誌や著書を多数執筆し、バスのフライフィッシングに与えた影響は計り知れないものがあります。現在もオクラホマ州で活動を続けています。
ラリー・ダールバーグ
もうひとり、この時期にダイバーという傑作バスフライを考案したラリー・ダールバーグがいます。ダールバーグは1977年に18歳でダイバーフライを作りました。その使用法は驚くべきもので、次のように説明しています。「水深8フィートであればシンキングラインの先に9フィートのリーダーを結ぶ。ラインをボトムまで沈めてもリーダーの方が長いのでフライは浮いている。その状態でラインをリチリーブすると、ダイバーはぐんぐんと潜っていく。
最終的にボトムまでコンタクトさせたら再び浮上させ、水面でステイさせる。そういう使い方をしていました」
このように、ラインを沈めてクランクベイトのような使い方をするためのものだったのです。この方法でダールバーグは12〜15ポンドクラスのビッグバスを何本も釣り上げたといいます。現在、ダイバーフライは世界中の釣り人にサーフェスフライとして使われており、その独創的アイディアは賞賛に値します。
日本のバスバギング
日本のバスバギングはもとから暗黒時代でした。その理由として、本国アメリカの暗黒時代にバスフィッシングが入ってきたことがあげられます。本国で注目されていないものが、日本でも注目されることはありませんでした。その結果、フライフィッシングの外道としてトラウトフライフィッシャーに認識される以外に、バスフィッシャーマンには全く受け入れられませんでした。それ故に、バスバギングとバスのフライフィッシングの違いさえ、区別はなかったと言えます。
西山氏はバスのフライフィッシングのビデオの中で、マドラーミノーの有効性について語り、ダールバーグダイバーを「大物専用」と紹介しています。これは日本のバス釣りがバスのフライフィッシングであり、バスバギングではなかったという明確な証拠だと思われます。つまり、水面で大きなサイズのバスバグを操る釣り、いわゆるトップウォーターとしてのバスバギングはほとんど認知されていなかったのです。
そういう前提を踏まえたうえで、日本のバスのフライフィッシングにおいて、影響を与えた人物を列挙すると、やはり西山徹氏、東智憲氏、岩井渓一郎氏、佐伯信行氏などのプロのフィッシングライターが該当すると思われます。それぞれがバスのフライフィッシングに関する書籍やビデオなどを出版し、貴重な情報を提供しました。中でも西山氏は古くからバスのフライフィッシングを提唱していた人物でした。その西山氏のポッパーは「TNポッパー」として販売され、よく釣れる優秀なポッパーとして人気がありました。このポッパーは日本人が考案した最初の商用バスポッパーだったかもしれません。また、釣りの記者であった東氏はデイブフィットロックの著書「Fly fishing for Bass」を翻訳し、アメリカのバスフライフィッシングの情報を日本語で読めるようにしました。この功績は大きなものがあり、それまで雑誌等で断片的にしか紹介されることがなかった情報が、一気に集大成的なものとして理解することを可能にしました。さらに佐伯氏は日本語ベースで書かれた初のバスフライ入門書「バスのフライフィッシング入門」を出版し、これから始める人に一から分かりやすく情報を提供しました。
そして1995年ごろから普及したインターネットは、アメリカのバス釣りの情報を日本に居ながらにして誰でも得ることを可能にしました。これによって、今まで入手が困難だったバス用のフライタックルは海外のオークションなどを通じて簡単に個人輸入できるようになりました。
インターネットの普及はそれ以外にも大きな影響を及ぼしました。それは1997年ごろから個人の情報サイトとして3人のフライフィッシャーがバスのフライフィッシングに関するWebサイトを開設したことに始まります。当ホームページもそのひとつですが、当初は「Floating
Bug」の坂間幸雄氏、「ちばらぎFF」の車田氏の2サイトがあり、それぞれが大きな影響を与えたことは明らかです。
2017年現在、日本におけるバスのフライフィッシングは20年前とは比べ物にならないほど情報が普及し認知度は高まったと言えます。そして徐々に暗黒時代から浮上しつつあると思っています。日本では流行らないと言われたフライロッドによるバス釣りですが、日本にはトップウォータープラッギングという独特のスタイルがあります。とりわけバスバギングが、このトップウォータープラッギングの延長線上にあると考えれば、第3次バスバギングブームの到来も、あながち夢ではないでしょう。日本のバス釣りを取り巻く環境は依然厳しいものがありますが、21世紀のバスバギングが少しでも明るいものになっていくことを願っています。
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Chartreuse Popper |